母が亡くなる

母の具合が悪かったのは2004年12月の暮れのことでした。

風邪のような症状で食べることが出来なくなってしまったのでした。

固形物から流動食へと食べ物を変えていきました。

しかし、その流動食も受け付けなくなったのでした。

やむなく、入院してもらわなくてはならない。 かかりつけの医院からの照会で朝早く、大学病院に母をタクシーに乗せて行ったのでした。

私:母が食べられなくて、入院させていただきたいのです。

看護婦長:でも、皮膚を調べてみると食べているようですよ。

私:無理に流動食を食べさせていたのですが、もはやそれも駄目になったのです。

看護婦長:そうですか。それでは主治医に連絡してみましょう。

看護婦長はまだ、自宅にいる主治医に相談したのでした。

看護婦長:先生の許可が出ました。

私はほっとしたのでした。

その後、母の精密検査が始まったのでした。

不思議なことに、母は入院して,点滴を受けるとまもなく、普通の食事ができるようになったのでした。

数日して、精密検査の結果が出ました。

主治医:ガンの兆候があります。 しかし、手術するには96歳の高齢で、心臓に負担がかかり、命にかかわる危険があります。 手術は控えて様子を見たほうが良いと考えます。

私:そうですか。 わかりました。 入院させていただいたお陰で、母も元気になりました。 有難うございました。

母は年末に退院ができたのでした。 そして、めでたい正月を迎えることができたのでした。

そして、1月26日には97歳になったのでした。

私:100歳目指して、頑張ろうね。

母:そうだね。 まだ、死にたくないからね。

それから、平穏無事な日が過ぎたのでした。

しかし、8月に入ってのことです。

私が夏風邪を引いてしまったのです。

高熱が出て、どうしようもありませんでした。

それで、楽しみにしていた湯河原での囲碁会の合宿に参加できなくなったのでした。

やっと、風邪が治ったと思ったら、今度は母が風邪になったのでした。

それよりも前に母はこんなことを言っていました。

母:微熱が続いているよ。 37度だよ。

私:風邪のせいだと思うよ。

母:そうかね。

母の体温は日中には高く、朝には下がっているような感じで繰り返していたのでした。

私は結果的にはうかつにも、この症状を軽く見ていたのでした。

母:食べたくなくなってきたよ。

私:食べなくてはだめだよ。

母はかかりつけの医院からの薬を飲んでいました。

ここの医院の薬は総合病院の薬と同様の抗生物質の薬で、とてもよく効くのでした。

しかし、今回はいつもの風邪の様子と違い咳が続き、肺炎のような症状でした。

そして、前回の12月と同様に、流動食も食べられなくなったのでした。

私は会社に勤めていて、行かなくてはならなかったので、弟に母を医院に連れて行って、

点滴等の処置をしてもらうように依頼したのでした。

私:まだ、お母さんに力が残っているから、医院に連れて行って、点滴をお願いしてね。

救急のような状態でないので、私はそう依頼したのでした。

弟:分かった。まかしておいてね。

その後、弟から会社にいる私に携帯電話がありました。

弟:ここの医院での点滴では十分できないので、近くの救急病院に入院したよ。

私:そうか。それは良かったね。

母への点滴がその病院で始まったのでした。

私は前回の実績から、まもなく、食事が取れるだろうと楽観していました。

しかし、母は普通の食事はとれずに、やむなくペースト状にした食事となったのでした。

それでも、自分では食べられない状態でいた。

私たち家族(私、妻、弟の3人)は代わる代わる母に食べさせたのでした。

私は毎日のように、平日は夜に病院に駆けつけたのでした。

母:昨日の夜、私の葬式の夢をみたよ。

私:そんなことを気にする必要はないよ。

  生きている証拠だよ。 

母:私は死にたくないよ。

私:大丈夫だよ。

  お母さんは偉いね。 一生懸命、食べるように頑張っているね。

母:食べなければ、死んでしまうからね。

死なないために、苦しみながらも、頑張って食べる母の姿はとても、けなげで、涙を誘うのでした。

母:まだ、帰らないでね。

私:分かっているよ。

私は見舞い時間の夜8時まで、できるだけいるようにしたのでした。

しかし時には次のようにも母は言ったのでした。

母:もう、家に帰りなさい。

  お前が風邪を引いたら駄目だからね。 お前は一家の大黒柱だからね。

私は母の思いやりに熱いものがこみ上げてくるのでした。

妻、弟、私と代わる代わる母を看病し、励ます様子に周りの看病する人はとても参考になると言ってくれたのでした。

特に妻と弟の看病はとても、丁寧で本当に心から感謝せずにはいられません。

しかし、2週間たっても、母の容態は変わりません。

熱も常時37度の高さになっていました。 血圧も高めでした。

最初の検診では風邪、肺炎、大腸がんその他の症状が見られ、満身創痍の症状でした。

しかし、院長の最初の診断では2週間の治療計画で退院の予定でした。

それで、そのために精密検査が必要になったのでした。

母には輸血が行われました。

私は治ることを信じて、精密検査の了承状にサインをしたのでした。

私はそれと同時に毎日のように近くの神社に母の快癒のお祈りをしたのでした。

私:どうか、母が良くなりますように。

私は精密検査も後になってみると楽観視していたのでした。

検査の日には弟が病院にいました。

私には若干の心配がありましたが、午後4時になっても連絡がなかったので安心していたのでした。

ところが、その心配もつかの間、弟から携帯に緊急連絡があったのでした。

弟:お母さんが大変だよ。 喀血したのだよ。 早く、病院に来てください。

私:分かった。すぐ行くよ。

私の心臓は早鐘のように鳴ったのでした。

電車の中でも気が気ではありません。 このときほど、電車の速度が遅いように感じたことはありません。

私は病院のある駅を降りると一目散に病院に走ったのでした。

病院の階段を駆け上がりました。

私:どうなの?

私は母のベッドに近づくと言ったのでした。

私:お母さん。お母さん。

母は息絶え絶えの様子でした。

でも何とか、分かったようでした。

母には止血と輸血が行われました。

その後、母の様子は眠ったように平穏になったのでした。

看護室ではまさかのために緊急連絡先を書くように要請されたのでした。

その日、弟はまさかに備えて、病院の許可をえて、夜8時を過ぎても、病院にいたのでした。

弟から自宅に夜10時ごろ電話がありました。

弟:兄さん。 お母さんがぐっすり眠っているので、大丈夫だと思うからこれから帰るよ。

私:そうか。良かったね。ご苦労様。お疲れ様。

ところが朝になって病院から緊急の電話があったのでした。

看護婦:お母様の容態が急変しました。 すぐに来てください。

私:分かりました。すぐに行きます。

私は弟に連絡しました。

私:今、病院から連絡があった。お母さんの様子が大変だよ。すぐに来てください。

弟:分かった。すぐに行くよ。

私は妻と息子、娘にもすぐ病院に来るように言って、自転車に乗って、病院に急いで行ったのでした。

私は病院に着くと矢のような速さで病院の階段を駆け上がったのでした。

母は大きく息を吐いて、吸ってという状態を繰り返していました。

血圧は降下し、心電図も下降をたどっています。

今にも息が止まりそうな状況です。

私:お母さん。分かる?

母は息をしているものの、反応がありません。

しばらくして、妻、弟、息子、娘が駆けつけてきました。

口々に母に語りかけます。

妻:お母さん。 私です。分かりますか?

弟:お母さん。 今、着いたよ。

息子:おばあちゃん。

娘:おばあちゃん。死んじゃいやだよ。

みんなの目には大粒の涙で一杯です。

これが最期の別れなのか。私の心は悲しみの気持ちでとても、やりきれなくなったのでした。

しばらくして、院長が見えて、診察し、その後、死亡診断書が出されたのでした。

死因は大腸癌と記述されていました。

私の脳裏には母の一生が走馬灯のように蘇って来るのでいた。

母の一生は苦難の連続でした。母の苦難が私と弟の人格をつくったのでした。

その感謝はいくら感謝しても、感謝しきれません。

お嬢さん育ちから結婚し、その後、一転して夫が倒れたあと、夫の看護、苦労の多い保険の外交員、子育てと三重苦が襲ったのですから。

それはそれは並大抵の苦労ではありません。

薄幸の母はそれでも、私たち兄弟が成人して、社会人になってから、次のように人に言ってくれたのです。

母:私のように幸福な者はいない。

私は母の報恩のためにも、世の人のために尽くすことを改めて、心に誓ったのでした。

葬式の際に私は次のご会葬御礼を出させていただいたのでした。

ご会葬御礼

 母の葬儀にあたりましては、御多用中にもかかわらず、

遠路わざわざご会葬くだされ、 ご丁重なるご芳志を賜りまして

まことにありがたく厚く御礼申し上げます。

母は亡くなる前日まで、意識もはっきりしており、回復を望まれました。

その後、急に吐血し、容態が悪化し九十七歳で、帰らぬ人となって

しまいました。 風邪をこじらせて、入院してから、半月程ですが

平成十七年九月一日、癌で亡くなって、まことに残念でございます。

母の生前中は多大なるご厚情を賜り、誠に有りがたく、ここに、

謹んで、厚く御礼申し上げます。

行き届かぬことばかりでございましたことをお詑び申し上げます。

とりあえず書中をもって御礼申し上げます。

                       喪主

そして、約1ヶ月後、香典返しの際にあらためて,次の挨拶状を出させていただいたのでした。

拝啓  故 母儀永眠にあたりましては、ご懇篤なる

ご芳志を賜りまして誠に有り難く、心より厚く御礼申し上げます。

母は亡くなる前日まで、意識もはっきりしており、回復を望まれました。

その後、急に吐血し、容態が悪化し九十七歳で、帰らぬ人となって

しまいました。 風邪をこじらせて、入院してから、半月程ですが

平成十七年九月一日、癌で亡くなって、まことに残念でございます。

私が会社へ行く毎朝、マンションのニ階の廊下から手を振っていた姿を

今でも、私の脳裏に焼き付いていて忘れることが出来ません。

母がせめて百歳まで元気でいることを望んでおりましたので,

突然のこととて、茫然自失いたし、そのショックが続いております。

しかし、今更取り返しのつくものでもありません。

このうえは、残された者が力を合わせて、万事に精励することが,

亡母に対するせめてもの追善ではないかと考える次第であります。

母の生前中は多大なるご厚情を賜り、誠に有りがたく、ここに、

謹んで、厚く御礼申し上げます。

亡母の生前同様,今後ともよろしくご指導,ご鞭撻下さいますよう

お願い申し上げます。

本日、供養の御印までに心許りの品拝呈仕りました。

何卒ご受納下さいますよう御願い申し上げます。

先ずは略儀乍ら書中をもって謹んでご挨拶まで申し上げます。  敬具

喪主

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