幸福のありかの分析
1.幸福はどこにあるか
多くの人は幸福は自分以外に主な原因があると思っていると考える。
即ち、自分以外とは客観的な事実である。
例えば、次のような事実である。
現金、衣食住、証券、不動産、職業、収入、親子、兄弟、国家保障、その他
多くの人は自分の努力のほかに、幸せになるために多大な国家保障を要請している。
2.客観的な条件の充実
それでは以上の事実が満たされれば、人は皆、幸福になれるだろうか?
そんなことはありません。 物的なものが十分でも、それだけでは動物と違って、幸せになるように人間はできていないからです。
(1) 人間には物的欲望に加え、精神的な欲望というものがあるからです。人間関係では男女間の愛憎関係があり、場合によっては殺人も起こっています。家族関係でも、会社関係でも、愛憎関係があります。そこには幸福もありますが、不幸も存在しています。
(2) 人間にはこれ位で良いというような限界がない場合があります。
例えば、コレクターを考えてみましょう。コレクターは同じようなものを多数持ちたい傾向があります。女性の場合、必要以上に多数のブランド品を集めたい人たちがいます。集めることより、より良いものを買い集めたい衝動があり、買うこと自体に喜びを求めているかもしれません。
趣味の範囲内であれば、それで良いのですが、国の場合には古来より、他国へのあくなき領土拡大主義があります。 また、企業の場合でも、利益増大のための不正や製品等の品質不正行為などがあり得ます。
人間の場合には動物と違って、過度のあくなき欲望が不幸を生む原因にもなっているのです。
3.究極的には物質面でも、精神面でも過度な欲望にとらわれていれば、不平、不満な精神状態になり、幸福な精神状態にはなりえません。
例えば、サラリーマンの場合には次のような不平・不満な事象があり得ます。
・平社員で係長になれなければ、幸福になれない
・課長になれなければ、幸福になれない
・部長になれなければ、幸福になれない
・社長になれなければ、幸福になれない
これにこだわれば、副社長であっても、社長を望んでいる人にとっては不平・不満です。
信じられませんが、実際にこのような人がいたとの話を聞いたことがあります。
上を見ればきりがない。下を見てもきりがない。これが現実の姿です。
どのような位置にあっても、幸福になりれるのにです。
では客観的な条件、主観的、精神的な条件が満たされなくても、幸福になる道はあるのでしょうか?
4.どんな場合にも幸福になる考え方
最悪になる場合を想定しての幸せになる考え方です。
死んでしまえば、自分は存在しないのですから、そこには幸福も、不幸も存在しません。
しかし、それで、死んだほうが良いとは自動的にはなりません。
なぜなら、死なないからこそ、幸福になる道もあるからです。
では死なない状態でどうしたら、幸せになれるでしょうか?
それは①幸せに絶対なってみせると決意することです。
②どう決意するか。生きている、生かされていることに心から感謝することです。
世界の難民はどんなことがあっても、他国に逃げて、生き延びようとしているではありませんか。
それは何のためでしょうか?
生きて幸せになりたいからです。すなわち、最優先すべきは生きること自身が幸せの源なのです。
動植物の世界は皆そうです。生きて、動植物的なりに花をさかせて、子孫を残し、繁栄するために、どんなことがあっても生き延びようとしているのです。
それが生命の本質なのです。 人間は悩み、苦しんでそのことを喪失したりしているのです。
私たち、日本人は今、難民状態ではありません。
ですから、どんな災難、や不合理な出来事にあったとしても、すべてを前向きに受け止めて、積極的に対処して、災難をチャンスに置き換えて、生きていくことなのです。
これが不幸な出来事にあっても、幸せになる秘訣なのです。
残念ながら、私の父は繁盛した町医者でしたが、戦争で全てをなくして、その結果、のんきな父さんになってしまいました。収入は極度に減り、そのうえ、私が中学生の時に脳溢血で倒れました。収入のなくなった家族は父の看病をしながら,それでも頑張って、生きてきました。
5.追記
何か、不条理なことが起きてゆううつになった時、ヘレンケラーを考えましょう。
眼も耳も口も不自由でも、彼女はサリバン先生のもとで、学習に励み、大学まで卒業しました。卒業後は、世の中の鑑として社会貢献を果たしました。
彼女にとっては苦難の道ではあったのですが、彼女の努力で彼女の不遇な運命を克服したのでした。
私たちも小さな不条理な出来事や大きな試練に負けずに、ヘレンケラーのように運命を乗り越えて、幸福になろうではありませんか。
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